私が弓を始めたのは、昭和32年16歳の時でした。それまでは卓球をしておりましたが、私には、足が弱く走る事が苦手という弱点がありました。フットワークに問題があり、卓球に見切りをつけていた時、当地の上杉神社境内の弓道場で一般の方々が稽古されているのを見て「これだ!これは私にもできる」と思い、精神力と合理的理論さえ研究すればいいと弓道への心が決まりました。当時米沢市には学生弓道はありませんでしたので、20名程で弓道部を作り、部長としてこの道に入る事になりました。昭和36年の時、当時地元市の副会長をされていた、故香坂富士夫八段(酒造会社社長)さんの事務所でお茶を頂いていたとき、「東北で初めて天皇杯をとったぞ!俺と同じ歳の青森の鈴木三成だ」と言われましたが、初心者の若僧には誰だか分かりませんでした。しかし、「俺もとってみせる!」と啖呵を切っておりました。子供の頃から"売られた喧嘩は買う、買った喧嘩は引かぬ"このように育てられて来ました。何も売られた訳でもないですが、勢いで言ってしまったのですが、一端言ったものは引かんぞと勝手に思い込み、天皇杯への挑戦が始まりました。
弓道をする上で私にとって幸いした事が三つ程あります。
一つ目は私には能力が無いと言うことがはっきり感じていた事です。これが一番でしょう。もし私に能力があると思いがあったら他人と同じ事をしていたでしょう。なぜならばそれでも勝てると思ってしまうからです。「他人と同じ事をしていては勝てない。駄目だ!」といろいろな先生方から貪欲に理論をお聞きし、その理論をヒントとして、私ならもっとこう考えると自分の理論を構築しては壊すの繰り返しでした。「完全なものなど何ものもこの世に存在しない」これが私の信念です。「破壊と再生」、つまり温故知新、守破離の精神を大切にして進化を繰り返す、これが私の人生です。探究心や革新の芽を摘むような決め付ける事は自分にも他人にも強い嫌悪を感じてしまいます。
二つ目は弓聖と呼ばれる故阿波研造先生の高足として有名な故十段範士安沢平次郎先生(号東宏)との出会いです。家内の実家の近所に先生の娘さんが住んでおられ、墓参りや娘さんに会う為度々米沢に帰られる度毎にご指導いただきました。(米沢市の西蓮寺に埋葬されています)安沢先生には小さな技術的な事を教わった記憶はあまりございません。「弓は宇宙と融和するのだ!無発だ!放すな!狙うな!」このような調子の指導が記憶に強く残っております。喝を入れられても、その頃の私には訳のわからない事を言う怖い先生でした。「大宇宙との融合、円成無発の射」など理解出来ず叱られるだけでした。ですが今は「お前は安沢先生みたいな事を言うようになった」と言われます。当時は訳が分かりませんでしたが、先生の教えが深く心に残っていたからでしょう。先生が亡くなられ、その後私の心に芽生えた事は、宇宙は果てしない広がりであり球であるということです。宇宙と融和するには少なくとも天地左右に心も体も広がる必要があるのではないか。弓手で的に向かって押し切るのは心も体も的側に片寄るのではないかと思いました。又それに心の中で離れを伺い、合わせる意識が生まれる事に結び付くと考えました。それでは無発に結びつかない。このように思い始めました。宇宙に思いを馳せ、心も身体も伸合いの延長の中で勝手に離れて行く射法が安沢先生の教えに少しでも近づけるのではないかという考えに至ったのです。その結果今日の私流の大離れ射法になりました。どの様な仕事やスポーツでも目的に合った合理的な道具を使います。作業が違えば道具も当然その作業に合った道具に変えます。弽も道具であり、射法により弽は違って当然です。しかし、あまりにも無頓着さを感じました。この事が弽師への動機になる事になります。
三つ目は始めた時から弽に恵まれた事です。故香坂先生より「上手くなりたかったら、弽はいい物を買え。弓や矢は大事だが後で買い替えも出来るし、慣れる事が出来る。弽は壊れるまでなかなか変えられないものだ。癖も付いてしまう。離れは一生を左右する。弽は離れに影響するから、無理してもいい物を買え」と言われました。それでその当時県の副会長で離れが鋭い先生と評判の故後藤米蔵先生の使い込んだ弽を無理に譲って頂き、癖が付く前に使い込んだ弽から弓を始める事が出来た事です。弽師の立場を離れ、弓引きとして考えても、私はそう思っております。良いものとは高価なものと限りません。この様な色々な事に恵まれて結果的に三度天皇杯を頂く事が出来、幸運と感謝しております。